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バルセロナで日本語の礼拝に参列したい、聖書を読んでみたい、と思う方々への案内用ブログです。プロテスタントとカトリックの合同集会ですが、洗礼を受けているか否かに関わらず、聖書に興味をもたれる方ならどなたでも歓迎します。なお、統一教会やエホバの証人など、いわゆる異端といわれる宗派とは一切関係ありません。
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野心の実
 



ユダ王国が誇るヨシヤ王が、エジプト軍の放った矢に貫かれて戦死した。ヨシヤ王はアッシリアに頭の上がらない立場にはあったものの、一応ユダ王国を独立国として保つことに成功していたのだが、エジプトに負けてからユダはエジプトの支配下に入れられてしまった。

 

エジプトの王ファラオ・ネコは、ヨシア王の長男ヨアハズを、ユダの王として即位させた。自国の王になったとはいえ、ヨヤハズの使命はエジプト王国の属国民としてユダの民をまとめることである。しかし、ヨアハズは自国の再起を願い、すぐにエジプトに対して反乱を起こしてしまった。結果、彼はエジプト軍に捕らえられ、エジプトへと送還されてしまう。

 

ふたたび王を失ったユダに、ファラオ・ネコはヨアハズの兄弟エルヤキムを選び、その名をヨヤキムと改めさせて即位させた。しかし、ヨヤキムもまた野心に燃えた男だった。彼も兄と同じようにユダ独立を図って着々と準備を始めた。

 バビロニアに降伏するネコ2世


その頃、エジプト軍はカルケミシュでバビロニア軍と戦って敗れ、再びユダを通って南へ、シナイ半島へとバビロニア軍によって後退させられてきた。そしてこの時から、ユダ王国はバビロニアの支配下となった。支配国が変わっても、ヨヤキムはそのままユダの王位にとどまった。

 

ヨヤキムの独立計画はそのまま続けられた。今度の目標は打倒バビロニア。そしてこのターゲットはエジプトも同じであったので、ヨヤキムは密かにエジプトの援護を要請して、一緒に戦ってバビロニアから自由になろうと願い、ラマト・ラヘル(恐らく聖書のベト・ハケレム)に壮大な宮殿を建てた。

 

ただし、独裁的なヨヤキム王はこの宮殿建築に、人民を無償でこき使ってしまった。王は民の反感を買い、エレミヤはこの王の行為を非難してこう言った。

 

       災いだ。恵みの業を行わず自分の宮殿を

       正義を行わずに高殿を建て

       同胞をただで働かせ

       賃金を払わない者は。

       彼は言う。

       「自分のために広い宮殿を建て

       大きな高殿を造ろう」と。

       彼は窓を大きく開け

       レバノン杉で覆い、朱色に塗りあげる。

       あなたは、レバノン杉を多く得れば

       立派な王だと思うのか。

       あなたの父は、質素な生活をし

       正義と恵みの業を行ったではないか。

       そのころ、彼には幸いがあった。

       彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、

       そのころ、人々は幸いであった。 

       (エレミヤ書2213-16節)

 




しかしヨヤキムはエレミヤの進言に耳をかさなかった。こうして3年が経ち、ヨヤキムが準備が整ったと感じたころ、バビロニア王ネブカドネツァルがヨヤキムの計画を察知した。

 

当然、このような反逆行為は即刻抑えられるべきである。ネブカドネツァルは、まずユダの近隣諸国を扇動してユダを東から攻め、バビロニア軍をエルサレムへと進軍させた。紀元前598年、エルサレムはバビロニア軍に包囲され、攻撃を受けた。この時、ヨヤキムは自国民で形成した軍をもって反撃を命じたが、これまでの積もり積もった王への憎しみは、ヨヤキム王への攻撃となってしまった。ヨヤキムはこの時、エルサレムの城内で死亡している。

 

     ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて主はこう言われる。

     だれひとり、「ああ、わたしの兄弟、

     ああ、わたしの姉妹」と言って彼の死を悼み 

     「ああ、主よ、ああ陛下よ」と言って、悼む者はいない。

     彼はろばを埋めるように埋められる。

     引きずりだされて投げ捨てられる。

     エルサレムの門の外へ。

     (エレミヤ書2218-19節)

 

ヨヤキムが死ぬと、彼の息子ヨヤキン(18歳)が慌ただしくユダの王に即位した。彼の最初の仕事はバビロニアへの降伏宣言だった。そしてヨヤキン王の家族を含む、王国の上層階級の人々、勇士1万人、職人や鍛冶など有用な人物らはすべてバビロニアの地へと連れられて行き(紀元前597年。第1次捕囚)、ただ貧しい民、弱い民だけがエルサレムに残された。(列王記下24:14

 

ヨヤキムの野心の結果であった。

| ダニエル書研究 | 17:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
揺らぐ王国ユダ
 父王が家臣に殺された時、息子ヨシヤはわずか8歳の少年であった。

ヨシヤの父も、そして祖父も、ヤハウェの神にそむいた人生を送り、罪を重ねた王たちだった。特に祖父マナセ王が犯した罪は重かった。ユダの王の中では治世が最長だったマナセ王は、神殿の中に異教の祭壇を築き、偶像を設置し、自分の子供を火で焼き、自国民を次々と殺してエルサレム中を血の海とした。ユダ王国史では最悪の王と評価されている。

「マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を おさめようとはなさらなかった」(II列王記 23:26) と聖書にもある通り、主はマナセのしたことを赦そうとはなさらなかった。そしてついにユダを敵の手に渡すことを決意されるに至った。(II列王記 21:14)

            マナセ王が建てた偶像を引き倒すヨシヤ王の改革

主の決意は絶対だが、そのような神の決意を知らない少年ヨシヤは、父王を継いでユダの王に即位した(前639年)。幸いなことに、まだ純粋な心をもった彼には神を敬う母と、祭司である母方の祖父がいた。彼は16歳の時にダビデの神を求めはじめ、20歳になると国の改革に着手した。ヨシヤ王は主の前に正しく歩み、父たちが建てた偶像を一掃して主の神殿を再建した。国民は長い間の悪政から神に立ち返る精神をすでに失ってしまっていたため、改革はうまく進まなかったが、それでも彼はあきらめなかった。

そのころ、アッシリア地方にスクテヤ人という野蛮な民族が怒涛のように侵入し、アッシリア中を荒らした。そして弱まったアッシリアを見て、好機とばかりバビロニアたアッシリア方面に進軍しはじめた。これを察知したエジプトも、バビロニアの西方拡大を阻止しようと、ユーフラテス川方面に北上した。



エジプト軍の北方遠征の通り道となるユダ王国は、当時アッシリアの支配下にあったので、立場上アッシリアに援軍しなければならない。そこでヨシヤ王はメギドでエジプトを迎え撃つことになった。

メギドはガリラヤ湖の南西約40Kmにある交易都市。ヨシヤ王はここに防御線を展開し、万全の準備を整えた。エジプト王ファラオン・ネコ(Nekau)にとって敵はユダではなかったのだが、攻撃を仕掛けてきたヨシヤ王に向かって矢を放ち、ヨシヤを射殺してしまった。ユダとエルサレムの全ての人たちはヨシヤ王の死を心から悼み、預言者エレミヤは彼を悼んで哀歌を作った。この哀歌は今日まで歌い継がれている。(歴代下35:20-25)

この時からユダは、今度はエジプトの支配下になり、ヨシヤ王の子、ヨアハズが即位した。



さて、シリア・パレスチナ地方の覇権を獲得したエジプト軍さらに北へ北へと進軍し、ついにユーフラテス川沿いにあるカルケミシュでバビロニアと対峙、ここで激戦を繰り広げた。しかし、ついにエジプト軍がネブカドネツァル率いるバビロニア軍より不慮の攻撃を受けて敗北し、南へと押し返されてしまった。(前605年)

カルケミシュの戦いに向けて進軍する前、エジプトはシリアまでを領土に持っていたが、この戦いに負けたことにより、ネブカドネツァル王にシナイ半島まで押し返され、ユダ王国はバビロニアの支配下にはいった。


今は見当たらないが、古代の地図にはシナイ半島の東に「エジプトの川」という名の川が流れている。ネブカドネツァルに敗退したエジプト軍はこの川の向こうまで押しやられ、ここに国境を敷かれた。このエジプトの国境は、驚いたことに現在もそのままの位置にある。メソポタミア地方の国々の国境はすべて、過去の形跡が見られないほどに書き換えられたというのに、この国境線だけは紀元前600年から微動だにしていない。そしてこのことは聖書に預言されていた。

エジプトの王は自分の地から再び出てくることがなかった。バビロンの王が、エジプトの川からユーフラテス川に至るまで、エジプトの王のものであった全ての地方を占領したからである。(列王下24:7)

主の御言葉は、確かにこの社会に実現されている。


捧げものをするファラオ・ネコ



歴史を調べ始めると、おもしろくてつい余計なことまで調べてしまう性格が邪魔をして、ダニエル書の公開が遅々として進んでいない点、お詫びします。ただ、バルセロナ日本語で聖書を読む会では、この学びを全員「面白い」と感じいて、背景を丁寧に学びながら興味深く読み進んでいます。次回はようやくダニエル書1章1節に登場するヨヤキム王のエピソードです。

今日、このブログを訪れてくださったあなたに、聖書が語りかけてくださいますように。



| ダニエル書研究 | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
アッシリア、バビロニア、エジプト、そしてユダ
 


古い時代のこと。メソポタミア(現在のイラン・イラク地方)にバビロニア帝国が誕生した。王は、あの法典で有名なハンムラビ王。紀元前1763年のことだった。当時の芸術品を見ても、この第一バビロニア帝国のレベルの高さには驚かされる。相当な文明大国だったに違いない。しかし、紀元前1700年代後半に全盛を期したこの帝国は、1600年代になるとぐらつき始め、1595年に王朝の終わりを見ることになった。

この後、資料もろくに残されていない混沌としたメソポタミアが歴史を重ねるが、第一バビロニア帝国がある頃から、周辺の大国といえばアッシリア帝国、メディア帝国、エジプト王国であり、これらに挟まれるようにして、神が選んだ民の国、イスラエル・ユダ王国があった。


バビロニアとアッシリアの間には、互いの国を強大にするための領土争いが絶えなかったし、エジプトも機会があれば北上して領土を広げたが、ユダは自国を守るのが精いっぱいの弱小王国。しかも国は内乱の末に北と南に分裂してしまっていた(紀元前922年)。

旧約聖書を読むとよくわかるが、国王が神にそむくと国は弱体化し、国王が神の前に正しい者だと国は繁栄する。北イスラエル王国も南ユダ王国も、それぞれ悪王が続出するようになって国民が振り回され、国力は弱まった。そしてまず北イスラエル王国がアッシリアに敗北して民族ごとアッシリアへ連れて行かれ(紀元前721年)、南ユダ王国もエジプトの支配下に入れられ、弱体化の一途をたどっていた。

ところで、このバビロニアの周辺に住む部族のひとつにカルデア人があった。このカルデア人は知的レベルが高く、魔術に精通していた上、好戦的であったらしい。アッシリアは一旦このカルデアを征服したが(紀元前640頃)、その4半世紀後の紀元前612年、カルデア人がメディア人と協力して反乱を起こし、都市ニネヴェを占領、アッシリアを破って再びバビロニア帝国をメソポタミア史のヒノキ舞台に押し上げた。第二バビロニア王朝の発足である。



新バビロニアの建国がカルデア人の武力によるところ大であったことから、この国はカルデア王朝となった。初代国王はナボポラッサル(在位:紀元前625-604)。このナボポラッサル王の息子が次の王、ネブカドネツァル2世であり、ダニエル書の1章1節から4章の終りまで登場するバビロンの王である。



ベルリン博物館にあるネブカドネツァルを浮き彫りにしたカメオ
「主メロダクのtめに、バビロン王ネブカドネツァル、その生存中にこれを作らせる」
との銘が刻まれている


ダニエル書の学びのまとめ第一回は、歴史背景の説明に尽きてしまいましたが、メソポタミアに詳しい方はたくさんいらっしゃると思うので、このような簡単な説明では満足されない方も多いことでしょう。でも、メソポタミアを初めて旅する方たちには、ダニエルの時代を少しでも感じていただけたらと願っています。次回もダニエル書1章1節の背景を中心にした記事になりますが、この度はもっと動乱の時代のドラマです。お楽しみに。

今日、このブログを訪れてくださったあなたが、今日も主の前に正しく歩めますように。

| ダニエル書研究 | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
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