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バルセロナで日本語の礼拝に参列したい、聖書を読んでみたい、と思う方々への案内用ブログです。プロテスタントとカトリックの合同集会ですが、洗礼を受けているか否かに関わらず、聖書に興味をもたれる方ならどなたでも歓迎します。なお、統一教会やエホバの証人など、いわゆる異端といわれる宗派とは一切関係ありません。
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汚い人
「こいつ、きったねぇ!触るとバイキンが移るぜ!」

小学校3年で千葉県から横浜市に引っ越した私は、ほどなく都会っ子達のいじめの餌になっていた。原因ははっきり分からない。しかし親分役の男子がそう叫ぶと、クラス全員は彼に逆らうことなく私を避けるようになり、私が近寄ると皆パニックした形相をして逃げ、間違って触ってしまうと、その部分にまるで菌が移ったとでもいうかのように、別の友にその部分を押し付けて自分を浄化した。

私のプリントを回収するときには親指と人差し指の先の方だけを汚物を持ち上げるかのように取り、私の持ち物すべても不浄物扱いを受けた。これらはしょっちゅう紛失し、私はそのたびにごみ箱などの中から探し出していた。

飛び蹴りを受けたり物を投げつけられたりという暴力も受けたが、机に唾されたり、陰でひそひそとありもしない私の噂を流して隔離するという精神的な暴力ほど私を打ちのめしたものはなかった。



担任にも見て見ぬ振りをされ、親にも理解してもらえなかった私の唯一の避難所は、自分自身の殻の中だった。私は自分の心の周囲に硬い殻をつくって自分をガードした。後にこの硬いガードを破って外界へ戻ることは大変な努力を要したが、当時はそれが自分を守るための唯一の手段だった。私は誰とも口をきかずに小学校・中学校・高校と約10年の歳月、友達らしい友達もできない青少年期を過ごした。

だから、聖書に登場する長血をわずらっていた女の気持ちが私には手にとるように理解できた。

長血とは不正出血のことで、生理でもないのに出血が続くとその女は「病気であり、汚れたものとされる」と定められている。当時、らい病や長血などを患って汚れたものは世間から隔離されて住まなければならず、それと知らずに誰かが近づいてくると「私は汚れています。私は汚れたものです」と叫んで知らせなければならなかった。

私は自分のことをそのように周囲に知らせるほどの惨めさは知らずに済んだから、まだ良かったのかもしれない。聖書の時代、病む者の人間性は本当に踏みにじられていたのだ。しかも、そうした病気をきちんと治せる医者はいない。彼女は12年もこのような状況に耐えていた。



だから彼女の耳に「どんな病も治してしまうイエスという預言者」の話が届いたとき、直感した。

私の人生を立て直せる人は、この人しかいない。

しかし、人前に堂々と出て行って主イエスに話しかけることは、汚れている以上不可能だ。女は、深くベールで顔を覆って周囲にわからないようにして後ろからこっそり主イエスに近づこう、衣の裾にでも触れたら治るかもしれない・・・と決意した。私には危険を犯しても“普通の人”になりたい彼女の気持ちが痛いほどに感じられた。

女が群集の群れの中を密かに主イエスに近づいて衣の裾に一瞬触れたとき、女は出血が止まったのを感じた。しかし感激する間もなく、すぐにイエスが振り返って「誰だ、私の衣に触ったのは」と女を捜した。大勢の人に押し合いへし合いされているのに、自分の力を求めて触った女を捜した。ばれてしまう・・・隔離されていなければいけない私が人前に出てきてしまったことが、ばれてしまう。ここまで来たのに。



絶望の気持ちを抑え、処罰を覚悟して女は震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由と、たちまち癒された次第を皆の前で話した。するとイエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言って立ち去り、周囲の者も誰も彼女を罰しなかった。(ルカ福音書8章40-48節)

聖書のこの話は有名だから今まで何度も読んできたのに、今日はじめて私は気が付いた。長血の女は私自身だったのだと。汚いとののしられ、話すことも許されなかった日々に耐えられなくなったとき、私は「教会なら温かい人がいて、友達になってくれるかも」と哀れみを請うような気持ちで教会に近づいた。そこで主イエスの衣の裾に私は触れたのだということを、今になって理解した。

人が病にあるのは、その人や家族が罪を犯したからではない。「神の業がこの人に現れるためである」ヨハネ福音書9章3節 (下山由紀子)

今日、このブログを訪れてくださったあなたに主の慈しみが届きますように
| | 06:23 | comments(2) | trackbacks(0) |
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幼子の真っ白な柔らかい心がなんと苦しんだことでしょう。そしてなんと長い時間と空間が続いたことでしょう。その硬くなった心が砕かれた時は本当に深い呼吸ができたことと思います。だからあなたはどんな小さな人も弱い人も大事に大事にしてくださるのですね。あなたのその不思議な愛の基がイエス様とのあの出会いにあったんですね。今よく分かりました。そしてその神様の御心があなたのうちに働いて毎日行動させてくださっていることがあなたを見ていて本当によく分かりました。そして神様があなたを本当に愛していらっしゃることがよく分かりました。
| RI | 2007/12/04 5:04 AM |
心温まるコメント、有難うございます。いつもそのように見てくださっている人がいると思うと、とても励まされます。自分は本当に小さく弱く、主の助けがないと立っていることもできない人間であることを自覚しています。命あるうちに救い主の存在を知ることができた幸せを痛感し、多くの方に同じ幸せを見出してほしいと願っています。(ブログ編集者より)
| | 2007/12/10 4:24 AM |









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