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バルセロナで日本語の礼拝に参列したい、聖書を読んでみたい、と思う方々への案内用ブログです。プロテスタントとカトリックの合同集会ですが、洗礼を受けているか否かに関わらず、聖書に興味をもたれる方ならどなたでも歓迎します。なお、統一教会やエホバの証人など、いわゆる異端といわれる宗派とは一切関係ありません。
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双子の兄弟
10日ほど前に、3月下旬から翻訳し始めていたメッセージがようやく仕上がってアップロードしましたが、その記事は3月28日の記事としてアップされてしまい、トップページには現れませんでした。ですから、まるで1ヵ月半ぶりにアップする記事になってしまいます。遅くなって本当にすみませんでした。

今、カンサス議会で起こったことを訳しています。これはそれほど時間をかけずに仕上げられると思います。


ある所に双子の兄弟が生まれた。二人は当然のことながらとてもよく似ていたが、諸事情があって幼いころ、別々の家に引き取られて行った。

 

二人とも自分の兄弟のことは覚えていたが、お互い顔をみることもなく長い年月が経った。

そんなある日、弟が強盗殺人罪を犯して逃亡した。警察は彼を探し始めた。ずっと追い続けたが、弟も必死で逃げまくり、なかなか捕まらない。

そして警察がようやく捕まえた男は、何と逃亡者の兄だった。今のようにニュースが発達した時代ではなかったから、兄は弟のしたことなど何も知らなかった。当然のことながら、罪状を拒否し続けた。

「自分は無実だ。そんなことはしていない。」

 

しかし、警察の話を聞くにつれ、犯人が自分の双子の弟なのだと気がついた。彼はそこで自分には双子の弟があることを言って罪を逃れることができたかもしれない。しかし、そんな言葉も警察には浅はかな逃げ口上だと思われる可能性も高い。兄は独房で悩んだ末、弟をかばう決意をした。そして弟に代わって裁判に出頭した。

 

それから日がたったころ、その後も逃げ隠れる毎日を送っていた弟が、疲れ果ててとうとう自主を覚悟し、警察に出頭してきた。警察は彼の名前から裁判記録を探し出してこう言った。

「この件は既に容疑者も捕まって裁判も終了し、犯人は死刑に処されてある。ケースは終了している。」



弟は非常に驚いた。「その書類を見せてください!」警察官は断ったが、彼はその書類をむんずと掴んで犯人の顔写真を見た。そこにはまぎれもなく、幼いころ別れた双子の兄が佇んでこちらを見つめていた。

「そんな・・・!真犯人は私だ!私を処罰してください!この人は犯人ではない!」しかし、警察官は「彼は死刑に処されている。だから本件は終了しているんだ。もうお前は関係ない。帰りなさい」と繰り返すばかりで、頑として彼の言葉を受け付けなかった。

弟は愕然とした。彼が犯した重罪は、兄の犠牲の死によって全く帳消しにされていたのだ。

 

これと同じことが私たちにも起こった。

「あなたなんか知らない。話も聞きたくないし近寄りたくもない!」と言い放たれた者がどれほど傷つくか、私たちは理解しているだろうか。この言葉を投げかけられたために挫折し、立ち上がれず、自殺に追い込まれた人は数知れない。つまり、こうした言葉を投げかけたり、態度に出すことは殺人に匹敵するほどの重罪なのだ。



しかし私たちは、神様に対してこうした言葉を投げかけてしまった。

にもかかわらず、主イエスは私たちの知らないときに、私たちの代わりに裁判に出頭し、私たちに代わって死刑を受けてくださった。そして私たちの罪は今、まったく帳消しにされているのです。

3本の十字架



ハンブルグ日本語キリスト教会・井野葉由美師のメッセージより抜粋


今日このブログを訪れてくださったあなたに神様の豊かな祝福がありますように。

P.S. 現在バルセロナ日本語で聖書を読む会のホームページがアップロードできない状態になっています。なるべく早めに修理しますが、直るまでもうしばらかくお待ちください。次回の集会は6月28日(日)、主催者宅にて行います。

 

| メッセージ | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
エステルの涙
 

ハマンが処刑され、最愛の妻に敵はなくなった。そして王はこの状態を見て安心した。

しかしエステルは安心できなかった。ハマンが書いた勅令(*)のお陰で反ユダヤ感情を抱いた国民は相当な数に上ったはずで、しかもユダヤ人皆殺しの命令は依然として取り消されていない。反ユダヤ感情が存在する限り、神の民ユダヤ人絶滅の危機は、まだ引き続いている。


 
ペルシア王とエステル王妃


突然、エステルは王の足もとにひれ伏して泣きだした。驚いた王は金の笏を差し伸べて彼女を立たせた。美しい王妃は涙ながらにまず王の憐みを乞い、許しを乞い、配慮を願い、「私にも御目をかけていただけますなら」と、これまでにない熱心さで王にユダヤ民族救済の采配を願い出た。

エステルの言葉に王は「お前たちの良いようにしなさい」と、寛大にもハマンから取り上げた王の指輪をモルデカイに渡した。この指輪の判こそ、王と同様の全実権を意味するものだ。つまり、ペルシア王の王妃も、ペルシアの国の実権者もユダヤ人になるという、異例の状況がここになされた。


 

早速、モルデカイはあらゆる政治家を集めて新たな勅書(**)を作成し、王の速馬で全国各地に届けた。そして王服と金の冠をまとって王のもとを退出したとき、スサは歓声に包まれた。すべてのユダヤ人にとって、断食の祈りが勝利を飾った日となった。

ペルシア帝国 (中央に首都のひとつSusa)


 

エステルは主の御心をしっかり見抜ける眼を与えられていた。主だった敵を排除してとりあえずの平和を得たことで安心せず、その奥に潜んでいる人心から来る危機を見抜いてていた。そして神の民が絶滅しないように引き続き行動した。こうして主の本当の御旨がなされるための道が、中途半端な形で閉ざされるのを防いだのである。

私たちは日々の生活の中で、主の御心を成すための本当の敵を倒す前に、とりあえず目前にある問題にのみ処置を施して安心し、ケースを手放しているようなことがないだろうか。主の御心がことごとくこの地になされること、これこそが私たちキリスト者の願いです。

 

(*) ハマンの勅令の抜粋:ハマンが予にこう指摘した。世界中の諸民族の中に、敵意を抱く一つの民族が交じっており、この民族は自分の法律に従ってあらゆる民族に反抗し、終始王たちの命令をおろそかにし、我々が申し分なく進めてきた共同の国家統制を遂行できなくしていると。予は、唯一この民族が常に万民に逆らい、その法律に従って奇異な生活を送り、我々の政治になじまず、最大の悪事を働き、そのため国家が安定していないことを認めざるをえない。(続編B章より)

 


ハマン(左)とモルデカイ(右)
映画 Estherより


(**) モルデカイの勅令の抜粋:全滅の憂き目に遭うところであったユダヤ人は悪人ではない、ということが予に明らかとなった。彼らは最も正義にかなった律法に従って生活し、至高にして偉大な生ける神の子らであり、その神のお陰で、国家は我々のためにもまた我々の先祖のためにも最良の状態に保たれてきたのである。それゆえ、ハメダタの子ハマンが送付した文書は無効であると心得よ。(続編E章より) 


5月のバルセロナ日本語で聖書を読む会ではエステル記の8章を学びました。次回はいよいよ最終回。6月28日に学びます。

今日、このブログを訪れてくださったあなたに主の愛がそそがれますように

| エステル記の学び | 23:58 | comments(0) | trackbacks(1) |
祈りの効果
 3月中旬からずっと多忙になってしまい、ブログが全くアップできない日々が続いてしまいました。一方ではちょっと長いお話をスペイン語から翻訳しているので、それに手間取っている分もありますが、言い訳はともかく、アップできない間でもこのブログを訪問してくださった方々には心からの感謝とお詫びを申し上げます。

長いストーリーはまだ完成していませんが、もうすぐできます。その間に3月の聖書研究の報告をさせていただきます。3月の集会ではエステル記の7章を読みました。




今日にでも首吊りの刑に処するつもりでいたモルデカイが、こともあろうに王にとっては恩人だった・・・。この事実に気づかされたハマンは動転していた。

「自宅の庭に立てた処刑用の杭について聞かれたら何と説明する?」
「王がモルデカイを含むユダヤ人全滅計画の全貌を知ったらどうなる?」
「自分の立場は安泰か?」

ハマンの頭はパニック状態だっただろう。その時「王妃の酒宴の準備が整いました。どうぞお越しください」と、王宮からの使いが来る。「そうだ、私にはまだ王妃に信頼されているという命綱があるではないか」ハマンは少なからず安堵して、ひとまず王宮へと向かった。



 

「王妃エステルよ、願いとあれば国の半分なりとも与えよう」と、昨日より熱心にエステルの真意を聞きだそうとする王に、彼女はついに打ち明けた。

「私と私の民族は滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのです。」

決して「ユダヤ民族が」でなく、「私と私の民族が」と、自分がユダヤ民族であることを示しつつ、自分の民族が殺されるなら私もそのうちのひとりです、と言明するエステルの言葉に、彼女のユダヤ民族としての誇りと覚悟が感じられる。


ハマンは真っ青になった。まさか・・・王妃もユダヤ人だったのか?
 

王は、王妃までも殺そうと企てる悪者の存在を初めて知って驚いた。
「それは誰だ!?」 王のこの質問でハマンの運命は決定的になった。

「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます」



愛するエステルからこの心外な答えを聞いた王は非常な驚きと怒りに頭が混乱して庭に飛び出し、その隙にハマンは王妃の膝元にかがんで命乞いを始めた。部屋に戻った王は、王妃の膝元にうずくまるハマンを見て誘惑しているものと思い込み激情する。「私の目の前で王妃にまで乱暴しようとするのか!」



 

そばで事態を見つめていた宦官が早速、「王のために貴重なことを告げてくれたモルデカイを吊るそうとして、ハマンが立てた柱があります」と王に進言する。つい数時間前までは、押しも押されぬ王の側近であるハマン様を敬い、捕囚民族出身のモルデカイを卑下していた宦官ですら、体制の変化に合わせて王のご機嫌をとっている。

「ハマンをそれに吊るせ!」
こうしてハマンは処刑され、王の怒りはおさまった。

 

しかし冷静にこの章を読んでみると、王は先の王妃ワシュティの追放の時と同様、今回も感情に流されて采配し、ひとりで満足している。このようにいつも感情に支配される王を、エステルは夫として信頼していなかったに違いない。エステルはあくまでも神のみを信頼し、全ての事を祈りつつ慎重に進めた。国の半分を王からもらってそこにユダヤ民族を移して自分が支配することも可能だったが、エステルはあくまでも神の支配を望み続けた。そしてそこに本当の救いの道が開かれていった。

エステルとすべてのユダヤ人の3日3晩の祈りはこのように神に聞き入れられた。

このブログを今日訪れてくださった方の祈りが神に聞きあげられますように。


 

| エステル記の学び | 15:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
私を愛するか
 すがすがしい ある朝、私は日の出を見ようと思って早起きした。
そして魂を洗われるような美しい景色に感動し、
「なんと素晴らしい光景なんだろう!この世に神の創造ほど見事なものはほかにない」
と、心から思った。


私は天地を創造された神を賛美しつつ、この美しい景色を飽きずに眺めた。
景色は次第に変化して、私を魅了してやまなかった。
そのとき、私は主が横に立って一緒におられるのを感じた。

やさしい春の風に乗ってきたように、静かな声が聞こえてきた。
「私を愛するか?」 と声は聞いた。
「もちろんです、主よ!
あなたは私の主、私の救い主です!」 と私は答えた。

すると主がふたたび聞いた。
「たとえあなたの身体に障害があっても、あなたは私を愛するか?」
私は当惑して、自分の腕、脚、そして体全体を見つめた。
今は簡単にできるあらゆることの多くができない自分を想像した。
「難しいかもしれません。でも私はあなたを愛するでしょう。」
私はそう主に答えた。


主はまた私に聞かれた。
「たとえあなたの目が見えなくても、あなたは私の創造を信じるか?」
目が見えなかったら、どうして主の創造を見ることができるだろう?
そして私は、目の見えない全ての人々に思いをめぐらせた。
そのような障害にもかかわらず、彼らの多くは神とその創造を信じている。
私は主に答えた。
「その状況を考えるのは難しいことですが、それでも私はあなたを愛するでしょう。」

主はまた私に聞かれた。
「たとえあなたの耳が聞こえなくても、あなたは私の声を聞くか?」
耳が聞こえなかったら、と私は一瞬考えたが、主の声を聞くのは耳ではない。
主の声は心で聞く。そこで私は即座に答えた。
「難しいことかもしれませんが、それでも私はあなたの言葉を聞くでしょう。」

主はまた私に聞かれた。
「たとえあなたの口が語れなくても、私の名を賛美するか?」
私は思った。言われてみれば聾唖だったらどのようにして主を賛美すればいいのか?
しかし声にならなくても、私たちの心からの、魂からの賛美を主は喜ばれる。
主を賛美するのに、必ずしも声は必要不可欠ではない。
仕える者として生きるとき、私たちは、仕える方として来られた主を見習うことにより、主に栄光を帰しているのだと気がついた。
そこで私は答えた。
「身体的な問題で歌うことができなくても、私は絶えずあなたの御名を賛美します。」


主はまた私に聞かれた。
「お前は真実に私を愛するか」
確信と信念をもって、私は真心から答えた。
「はい、主よ。あなたを愛します。あなたこそ唯一の本当の神だからです。」

私は主に、すべて的確な言葉で答えられた思った。
しかし主はまた私に聞いた。

「もし私を愛しているなら、なぜいまだに罪を犯し続けるのか?」
「それは・・・私が単なる人間であり、完全ではないからです。」

「それでは、ことが順調に進む時、なぜお前は私を離れるのか?
 なぜ苦しい時にだけ、私に祈るのか」

私は答えに窮した。そして目に涙があふれてきた。
神は続けて私に聞いた。

「なぜ教会や修養会の中だけでしか歌わないのか?
 なぜ賛美の時にしか私を捜そうとしないのか?
 なぜ利己的なことばかり私に願うのか?
 なぜ信じていないことをあれこれ私に頼むのか?」

私の目にあふれていた涙がこぼれ落ちた。

「なぜ、頻繁に私をはずかしめるのか?
 なぜ、私の福音を語らないのか?
 なぜ、苦しみの時に人からの慰めを求め、真に慰めようとする私に来ないのか?
 なぜ、私の名によって働く機会を与えようとすると、様々な言い訳を言うのか?」

私は理由を探した。しかし見当たらなかった。

「私はおまえの人生を祝福した。
 しかしお前は、この贈り物の価値を過小評価してしまった。
 私はお前に、神に仕えるための賜物を与えて祝福した。
 しかし、お前は私に背を向け続けている。

 私はお前に語った。
 しかしお前はその言葉から知識を得なかった。
 私はお前に語ったが、お前の耳はふさがれていたのだ。

 私はお前に祝福が見えるようにした。
 しかしお前の眼は一度もそれを見ようとしなかった。

 私はお前に預言者たち、使徒たち、使いの者を送った。
 しかしお前は座ったまま動かず、彼らが人々に拒否されていても動かなかった。

 私はお前の祈りを聞き、そのすべての祈りに答えた。
 お前は本当に私を愛するか?」

私は答えられなかった。どうして答えられるだろう?私は心底恥ずかった。
言い訳はひとつも見当たらなかった。何を言えば良いのか全くわからなかった。


私の心が涙とともに流れ出て、その流れは尽きなかった。
泣きながら私は言った。
「主よ、どうか赦して下さい!私はあなたの息子としてふさわしくありません」

そして主は私の言葉にこたえて言われた。
「これが私の恵みだ。お前は私の息子だ!」

私はその時主に問いただした。
「なぜ私を赦し続けるのですか?なぜそれほどにも私を愛されるのですか?」

「お前は私が創造したからだ」 と主は答えられた。
「お前は私の息子だ。私は決してお前を見捨てない。
 お前が泣く時、お前の気持ちを深く感じて、私はお前と一緒に泣く。
 お前が喜ぶとき、私もお前と一緒に喜ぶ。
 お前が悲しみに暮れるとき、私はお前の気持ちを喜びに変える。
 お前が転んだら、私はお前を立ち上がらせる。
 お前が疲れてしまったら、私はお前を腕に抱く。
 私は終わりの日までずっとお前と一緒に歩き、いつまでもお前を愛する」


私は今まで、こんなに泣いたことはないというほど泣きながら胸に思った。
私はどうしてこんなに冷たい者なのだろうか。
どうしたら、これほどの神の愛に応えることができるだろうか?

そこで主に聞いた。「私をどれほど愛しておられるのですか?」
主は私をその胸にきつく抱きしめてくださった。

その時、私は主の手に残る傷痕に気づいた。
私は、キリストであり救い主である主の足もとにひざまづいた。
そして、多分この時はじめて、本当の心からの祈りをささげた。

Roberto Velert 師のメッセージより抜粋


ずいぶん、この詩の訳に時間がかかってしまいました。でももしこの詩が読者の胸を打たなかったとしたら、それはとりもなおさず、私の翻訳がへたくそなせいです。
主が、直接あなたに語ってくださるよう、心をこめ、信じてお祈りしています。



| メッセージ | 19:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
眼の治療
知る人ぞ知る、の部分もあるが、ここバルセロナは眼科医療で世界のトップクラスを誇っている。市内には眼科“だけ”の総合病院がいくつもあり、驚いたことにどこも満員状態である。

中でも最も有名なのは、BARRAQUER (バラケール眼科)だろう。1900年初頭から眼科医療に携わるバラケール一家が1941年に開設した病院で、非常にレベルの高い眼科医療サービスを提供しながら今に到っている。


バラケール眼科も地下から地上7階まで、迷路のような通路に沿ってびっしり診察室が並んでいる。そして待合室はどこもいっぱい。いつ行っても「こんなに沢山、眼を患う人がいるものだろうか」と圧倒される。

この病院では、受付を済ませて待合室で待っていると「XX様、こちらでございます」とホテルマンのような制服のお迎え担当者が呼んでくれ、診察室まで一緒に行ってくれる。ここで働くドクターの数は数知れないが、どの医師も大変礼儀正しく、にこやかに患者に接してくださる。こちらは病院へ治療に来た患者なのに、この待遇ですっかり高級ホテルに来たお金持ちの気分に浸ってしまう。

Dra. Barraquer にはもっと感動した。バラケール先生は普通の患者さんが待つ待合室の奥に、扉で仕切った別の待合室をお持ちである。案内係さんに「こちらでお待ちください」と通された部屋の中央には巨大が楕円形テーブルがあり、彫像や病院の記念品が展示されている。この待合室の奥には木製の大きなドアがあって、これが電動で左右にゆっくり開かれると、その奥にバラケール先生がいらっしゃるのだ。


世界的に有名なドクターとはどんな方かと期待して、ゆっくりと自動扉が開くのを待った。すると奥には小柄で朗らかな笑顔を満面にたたえた女医の先生が起立して私たちを迎えてくれ、まるで「会えて嬉しいわ」とでも仰るかのように進んで握手を求めてくださった。先生の右側にはずらりと白衣の研修医が並んでおられ、治療の一部始終を観察している。

「娘が成長期になって、視力が落ちたようなんですが・・・」

こんな立派な診察室で、こんな立派なドクターに、こんな理由で訪問してきたというのが恥ずかしいような気持ちを抑えて来院理由を伝えると、早速検査をしてくださり、「近視が始まっているようです。メガネの処方箋を作りましたから、これでぴったりのメガネを作ってあげてくださいね」と、以前にも増して愛らしい笑顔で励ましてくださった。

心が潤されるような、忘れられない通院の思い出となった。

世界中から患者が集まるこのバラケール眼科の調査発表のひとつに、「眼を患う患者は中近東国籍に比較的多い」というものがあるらしい。今も昔も、イスラエルやエジプト、アラビア半島によく起こる砂嵐などの気象現象も影響しているのかもしれない。聖書にも眼を患う人が何人も登場している。

      ←エジプトの砂嵐→    

主イエスがおられた当時は食事も医療も衛生も非常にレベルが低く、食あたりや水あたり、ばい菌感染による病気は日常茶飯事。水を飲むくらいなら、ぶどう酒のほうが、加工されている分よっぽど衛生的だった。

骨を折ってもきちんと骨接ぎをされることがないし、らい病や盲腸は得体の知れない死の病だった。そして、病気は 「本人または先祖の罪がたたったもの」 と考えられていた。こうなると病気になることも、治ることも不可抗力である。病人達は、自分達はもう治らないもとの半ばあきらめ、死をまちながら絶望の日々を送っていた。

主イエスは宣教活動を群集の中で繰り広げられたが、特に病人が多い所でご自信が何者であるかを示された。つまり、奇跡によって多くの病人を癒された。だから、病気から解放された病人は、体の苦しみから解放されたという以上に、律法的なしがらみからも解放されたことを実感した。

主イエスは絶望に生きる人々の体と精神を解放したのだ。
彼らは主イエスに心惹きつけられ、神の国への招きに応じていった。

私たちもまた、不況の中、困難の中、挫折感にさいなまれるとき、もうおしまいだと絶望しているときでも、主イエスに触れられて全ての問題から解放され、健康に生かされる希望があるのです。

Roberto Velert 牧師のメッセージより抜粋

今日、このブログを訪れてくださったあなたに主が触れてくださいますように。

| メッセージ | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ善を行うのか
 「三日三晩、断食の祈りをしてください。そのあとで私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」

こうエステルがモルデカイに伝えてから3日目の夜。ペルシア全土のユダヤ人は民族の存続をかけた祈りのピークを迎えていた。皆、疲れも空腹も忘れて涙ながらの祈りをささげていたことだろう。王妃エステルも同じこと、翌日の王への進言のために自室で必死の祈りをささげていたはずだ。

  


同じころ、王の側近ハマンはモルデカイへの憎しみをつのらせ、妻のアドバイスに従って彼を吊るし首にする棒を立てたことに満足し、興奮して眠れずにいた。ついに彼は朝を待たずして王にモルデカイ処刑の許可を得ようと決心した。

一方、クセルクセス王はエステルが備えた酒宴で久々に美しい妻と語り合い、お酒を飲んだにも関わらず眠れずにいた。もしかしたら、ハマンに許可したユダヤ人全滅令のことが思い出され、ユダヤ人モルデカイについて引っかかるものでもあったのかもしれない。「その名をどこかで耳にしたような・・・」そこで仕える者に日誌を読ませ、すっかり忘れていたモルデカイの功績を思い起こした。

ちょうどその時、ハマンが王の前に現れる。しかし、用事を持ってきたハマンが自分の用を口にする前に、王が先に言葉を発した。「王が栄誉を与えたい者にはどのようにすべきだろうか」

偶然にしては計算しつくされたこの絶妙なタイミングに、神の働きを感じない読者がいるだろうか。

てっきり自分のための栄誉だと思い込んで王の即位と同じレベルの絢爛豪華な報酬を申し出るハマン。しかし彼が受けた王の言葉は、「ユダヤ人モルデカイにそのようにしなさい」という、衝撃的な命令だった。


あの憎いモルデカイに、この自分が王の栄誉を贈る役目を担わなければならない。ハマンは青ざめ、恐らく震えた。しかし王の命令は絶対だから、そのままモルデカイのもとに行って命令を実行した。そして悲嘆に打ちひしがれて自宅に転がりこみ、妻にことの次第を愚痴った。このときハマンに答える妻の言葉も印象的である。


「もしモルデカイがユダヤ人ならあなたは失脚します。生ける神が彼と共におられるからです」(続編より)

奇しくもこのころ、三日三晩の断食祈祷は終わりを告げ、王妃エステルの酒宴に招かれていたことすら忘れていたハマンのもとに、王の使いが迎えにやってくる。


今回学んだ章では豪華な報酬を受けるモルデカイが、とても陰の薄い存在になっている。モルデカイはかつて王の命を狙う者の存在を通告して彼の命を助けたとき、特にそのことで報酬を求めようという気持ちがなかったから、今回のような報酬は正直言って理解できない、居心地の悪いものだったのだろう。

しかし、そのような本人すら気にもとめなかった善行も、実は神の壮大なご計画の重要なポイントだった。私たちの日々の生活の中でも、報われない善行をすることがあるかもしれないが、それは神のご計画の一角を成すものに違いない。

バルセロナ日本語で聖書を読む会の2月の集いではエステル記6章を学びました。
次回は3月29日、エステル記7章を学びます。ご興味のあるかたはご一緒にどうぞ!集会についての詳細は集会HPをご参照ください。

今日このブログを訪れてくださったあなたが、主のご計画を成されますように。

| エステル記の学び | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
命のホットミルク
 ハワード少年は貧しい家庭に育ち、毎朝早起きして新聞配達のアルバイトをしなければ、学校に行くお金が足りないほどだった。


毎朝の仕事は、特に冬の間は厳しい。ある凍える朝、自転車で走り回っているうちに、本当に骨の隋まで凍ったかと思えるほど冷え込んでしまった。どうしても休憩が必要だと感じた彼は、いつも新聞を配る、ある家のドアのチャイムを鳴らした。

婦人が中から戸を開けると、冷気の中に真赤な鼻頭をした少年がいた。
「水を一杯いただけませんか。」
彼女は少年を中に通して台所に向かった。

婦人が台所から持ってきてくれたのは水ではなく、シリアルパウダーを入れたホットミルクだった。少年はちょっと躊躇したが、その暖かいホットミルクの誘惑は強く、少しずつ飲んで芯から温まった。生き返った気分だった。



「お礼はいくらになるでしょう」 彼はそういいながらポケットに手を入れた。ほんの少しばかりの小銭が指に当たった。

「いいのよ。いつも新聞を届けてくれてありがとう。」
婦人はそういって少年を送り出した。
彼は心からのお礼を述べ、ふたたび自転車に乗って仕事を続けた。

そしてかなりの年月が過ぎた頃、婦人は健康診断で癌を発見された。
地元の病院で治療を受けたが、彼女の癌は珍しいタイプだったので、大きな都市に転院した。しかしそこでもこの癌は医師の手に負えなかった。


ワシントンに Fred Hutchinson Cancer Research Center という、北米ではトップクラスの癌専門病院がある。ここはバルセロナ出身のテノール歌手、ホセ・カレーラスも白血病治療のために入院した病院である。カレーラスはこの病院に入院するまで、フランスでもバルセロナでも「治癒の確立は10%」と医師から宣告され、絶望的になって来たのだった。しかしこの病院の判断と手術でカレーラスは奇跡的に病気を克服した。ただし、さすがのカレーラスもその治療費には驚いたはずだ。            

  

この病院を婦人は考えた。請求費のことも考えた。しかし背に腹はかえられない。
結局、婦人はここに入院した。

彼女の癌は、やはりここでも難しいとされたが、それではこの癌を研究してみましょうというドクターが現れ、彼が献身的に婦人の治療に当たった。そして、婦人はカレーラスと同様、奇跡的に癌を克服できたのだった。

婦人は退院して自宅に着き、病院からの請求書を待った。
「きっとこの家を売ることになるわ」そう思うと、病気を克服した喜びと同時に、これからの不安も感じた。

請求書が病院から届いた。彼女はリビングに座って封を開けた。
そこには病院で受けた検査や治療の明細と治療費が長々とリストアップされており、最後に多額の請求費用が明記されてあった。しかし、その下にこうあった。

ホットミルクのお礼として返済済み。Dr. Howard

あの少年だった。彼はいつも新聞を配達していたお客の住所と名前をしっかり覚えていて、彼女を認識していたのだった。

ハワード医師はクリスチャンだった。しかし、彼はクリスチャンだったからこのような行為に出たのだろうか。私たちの中にはクリスチャンもいるが、そうでない者もある。しかし、ひとりひとりが彼のような暖かさを持って生きたら、世界はどれほど暖かい場所になるだろうか。

そして、このような働きを私たちクリスチャンから発信できたら、神はどれほど喜ばれるだろうか。



Roberto Velert牧師のメッセージより抜粋

今日、このブログを訪れてくださった方に、心温まる出来事がありますように。
| メッセージ | 01:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
奇跡
 嘘のような、本当にあった話です。

カレンという女性が妊娠した。彼女はほかの全ての母親達と同様に、赤ちゃんのために、そして長男のマイケル(3歳)のために、できるだけ良い環境をつくろうと努力を始めた。



妊娠が進むと、胎児は女の子であることがわかった。マイケルも喜んでお母さんのお腹の横で赤ちゃんのために歌を歌ってあげるようになった。もう兄としての自覚と妹への愛情が生まれているのを見て、両親は心から喜んだ。

妊娠は順調に進み、やがて月が満ちて陣痛が始まった。陣痛は次第に間隔が短くなり、5分ごとから3分ごと、そして毎分起こるようになった。



ところがここに到って胎児が出て来れず、カレンの出産は思いがけず難産になってしまった。医師たちは帝王切開の準備を考えたが、数時間後に赤ちゃんはようやく生まれた。

しかし赤ちゃんの状態は悪く、至急に救急車でSaint Mary病院のITUに運び込まれた。そこで日夜を徹して看病されましたが、赤ちゃんの状態はよくなる様子がない。

医師は両親を呼び、「希望はあまりありません。最悪の状態を考慮しておいてください。」と告げた。



カレンと夫は悲しみにくれたが、万一に備え、葬儀の準備を始めた。ほんの数日前までは、生まれた赤ちゃんのための部屋を準備していたのに、こんなことになるなんて・・・。彼らの目は涙が枯れることがなかった。

そんな日々、マイケルは毎日のように赤ちゃんに会いたいと両親にお願いしていた。「赤ちゃんにいつもの歌を歌ってあげたいんだよ」と。しかしITUに子供が入ることは許可されていない。両親はかわいそうに思ったが、「もうちょっと待ってね」とマイケルを慰め続けた。

ITUに入って2週間目になり、医師は「今週末までは持たないでしょう」と連絡した。



マイケルは待ちきれない様子でその日も「病院に連れて行って。歌を歌ってあげたいんだ」と母にねだった。そしてカレンは決心した。

とにかく今日マイケルを連れて行こう。マイケルはまだ1度も妹の顔を見ていないし、今日お願いして特別に許可が出ても、明日にはもう命がないかもしれないのだから。

カレンはマイケルが少しでも大きな子に見えるよう、ちょっと大人っぽい服を着せて病院へ連れて行った。やはり看護婦は「子供はここに入れません」と禁止し、カレンがマイケルを外に連れ出すよう注意し続けた。しかしカレンも頑張った。

「この子は妹を一目見るまで出て行きません!」

カレンは強引にマイケルを保育器の横まで連れて行った。マイケルはそこではじめて、命のために戦っている小さな赤ちゃんを見た。そしてしばらくすると、いつもの歌を歌い始めた。

♪ 君は僕の太陽、僕のただひとつの太陽だよ
♪ 空が雲で覆われていても、君は僕を幸せにしてくれるよ・・・



赤ちゃんは、心なしか安らかな表情になったような気がした。

しかし、それは気のせいではなかった。本当に脈拍が落ち着いてきたのだ。
驚いたカレンはマイケルをせかした。「続けて歌って!」

♪ 君は、僕が君をどれだけ愛しているかしらない・・・
♪ お願い、僕の太陽を今持って行かないで・・・

マイケルが歌っている間、困難だった呼吸も次第に整ってきたではないか。
カレンはあわてた。「マイケル続けて!お願い!」 興奮して息子をせかした。

♪ この間ね、君を僕の腕に抱いている夢を見たよ・・・

赤ちゃんはこわばらせていた体の力を抜いた。

「マイケル、もうちょっと歌い続けて!」母はマイケルの肩を抱いた。
看護婦達もあまりのことに泣き始めた。

♪ 君は僕の太陽、僕のたったひとつの太陽だよ
♪ 空が雲で覆われていても、君は僕を幸せにしてくれる
♪ お願い、僕の太陽を今持って行かないで・・・

このことがあった翌日、マイケルの妹は完全に回復し、数日後には退院した。



Womans Day Magazine 誌はこの出来事を『兄の歌が起こした奇跡』と題した記事で報道し、医師たちはこの事実を“奇跡”と呼んだ。

カレンは“神の愛による奇跡”と呼んだ。
愛には途方もなく大きな力があることを立証した出来事だった。

私たちはこうした愛を受けたいと願うかもしれない。
しかし、私たちもこのような奇跡を起こす立場に立てるのである。
与える愛さえ持ち合わせれば。

今日このブログを訪れてくださったあなたに、愛の奇跡が起こりますように。
| | 05:51 | comments(1) | trackbacks(0) |
慎重な人

 最近、業務に追いまくられてしまい、ブログのアップが遅〜くなってしまいました。気になっていましたが、その間にも多くの方に訪問していただいていたことが分かり、恐縮しながら感激しています。ありがとうございます。

バルセロナ日本語で聖書を読む会は1月18日にもたれ、エステル記の5章を学びました。



三日三晩の断食祈祷を始めた3日目、エステルは輝くばかりに美しく装って王の前に出るしたくを整えた。彼女はペルシア全土のユダヤ人の祈りに支えられている。しかし、呼ばれもしないで王の前に出る以上、その場で殺されるかもしれないという不安は募るばかりだったから、玉座へと続く王宮の扉を次々に通るたびに増す緊張感は、彼女を強く圧迫したに違いない。

その頃、王はギリシア帝国との戦いに、特にスパルタ軍との戦いに大敗して非常にいらついていた。スパルタ軍と戦った後、王が「ギリシアの兵士はみんなこんななのか・・・?」と愕然としてつぶやいたという記録がある。彼は苛立ち、悔しがり、怒りに燃えていた。そこへ王妃エステルが到着した。王は激しい怒りに満ちた顔を訪問者に向けた。そしてエステルは気を失った。


愛らしく美しい妻が倒れる姿を見た瞬間、王はわれに返り、駆け寄って彼女を支えて元気付け、黄金の芴を差し伸べた。この黄金の芴は、突然の訪問者を許すことを意味する。エステルは命拾いしてようやく安心し、王に感謝の言葉を語ってふたたび気を失ったと続編にあるから、やはり相当のプレッシャーを感じていたのだ。

王の腕の中で気を取戻したエステルは「今日、私が設ける酒宴にハマンと一緒にお越しください」と招いた。この日の酒宴で王は久しぶりに美しいエステルを眺め、高価なお酒と夫婦の会話をゆっくり楽しんだことだろう。彼はこの上なく上機嫌でエステルの願いを聞こうとするが、エステルはここでは何も言わない。彼女はまずこの酒宴で、30日間ご無沙汰していた王とのブランクを埋め、夫婦の心の絆を取戻したものの、すぐにその場では真意を告げないという慎重さを失わなかった。「明日またハマンと一緒にお越しください」


この2度の王妃の招待に自分がよほど信頼されていると確信したハマンは有頂天になり、早速友人達を招いてわが身を自慢しようと自宅に向かうが、宮殿でまた敬礼をしないモルデカイと鉢合わせになり、内心激怒する。そして家に帰り、家族や友人にひとしきり自慢話をしたついでに、鼻持ちならないモルデカイのことも話したところ、妻に「50アンマの棒を立ててモルデカイを吊るしたら」と提案され、即、実行に移してしまう。

ハマンの気分の移り変わりの速さと、思慮浅い性格が浮き彫りにされている記事である。

50アンマは約24メートル。マンションの1階が3メートルの高さに設定されていたとしたら、8階建ての高さにもなる。ペルシアの首都スサがどれほど広くても、当時の街ならどこからも見える高さと言える。モルデカイをここに吊るして見世物にすることを想像し、ハマンはほくそ笑んだ

深く物事を考えず、慎重さに欠ける彼と、命の危険を前にまず制して祈り、慎重にことを進めるエステル。神に頼り、神の意思を実行することを求めて生きる人の模範が王妃エステルに如実に表されている。



次のブログはあまり期間をあけず、過日礼拝メッセージで牧師が語ったストーリーをご紹介します。
今日、このブログを訪れてくださったあなたを、主が深い愛で包んでくださいますように。

| エステル記の学び | 06:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
隣人

永遠の命。それは神の命を意味し、人は持ち合わせていない。これを得ることはすべての宗教の望みだろう。

主イエスを批判する機会を狙っていたしていた律法学者は「永遠の命をいただくためにはどうすれば良いでしょうか」という質問を投げかけ、主イエスはこの質問に、彼の得意とする律法を用いて答えを引き出させた。すなわち、神を愛すること、そして隣人を愛すること。これを実行しなさいと言われた。


それでは隣人とは誰か。人間の問題はいつもこの質問をすることにある。そこで主イエスは有名な『善きサマリア人』の話を始められた。

ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追はぎに襲われた。追いはぎはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン金貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」 (ルカによる福音書10章30〜35節)


 


このたとえ話の中で襲われた旅人は、死を免れない状況の中で放置された。彼が倒れている所を通った祭司も、福祉事業を専門とするレビ人もこの旅人を無視したが、サマリア人が彼を助けた。当時、サマリア人とユダヤ人は現在のパレスチナ人とイスラエル人と同レベルの犬猿の仲だったから、これは驚くべき展開だ。

 

隣人とは誰か、という質問に対して答えられた主イエスの答えは、この話のあとで「誰が隣人か」という質問にすり替わっていた。これは実は大切なポイントである。

私たちは、自分に尽くしてくれる人、親切にしてくれる人、同郷の人など、私を幸せにしてくれる人を隣人だと思いたがる。一方で、自分の欠点は親のせい、社会のせい、周囲のせいだと責任転嫁をしがちなものだ。これは夫婦の間でも起こりうる。しかし、主イエスは人のせいにせず、相手がどのような人間であろうとも、あなたが彼の隣人になるようにしなさい、と言われたのだ。これは私に向けられた神様の命令であり、このことの責任は私自身にある。

 

私が相手を愛する。愛するというのはその人の心から湧くことであり、相手の親切に応えるということではない。相手が敵であっても、外国人であっても、貧乏人であっても、テロリストであっても愛することであり、それが本当に自由になるということである。と言うのは、自分自身を幸せにしようとしているうちは決して満足できないが、人を幸せにしようとすると毎日が幸せになるからだ。



つまり、自分の心に火をつけてもらうのではなく、人の心に幸せの灯をともす火付け役になる。

 

神様は生けるものすべてを、恋人のように愛されている。だからこそ、永遠に一緒にいられるよう、この世の生を終えたとき、天国で神の家族として迎えてくださる。天使の一人ではなく、家族の一員として。そして皆がそうなって欲しいと望んでおられる。

ただ、この永遠の命を私たちに与えるために、神はそのひとり子を十字架につけるという犠牲を払った。だから永遠の命を得るなら、少なくともイエス・キリストを信じること。それが条件である。

 

永遠の命を与えてくださる神は、私たちの必要の全てを与えて生かそうとされる。この神様の愛は神様の力から湧いた愛であり、これがクリスチャンの勇気である。だからクリスチャンの人生の目標は人に左右されず、損得を考えない人格に変えられることである。そういう人間になって、はじめて律法を守ったと言える。

盛永師のメッセージ要約


明けましておめでとうございます。
新しい年が、真に幸いな1年となりますように。

| メッセージ | 05:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
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